11月半ばを過ぎると、石川県には脂がのって身が締まった寒鰤がやってきます。同時期、加賀平野の畑では「青かぶら」が甘みとほのかな苦みを伴ってまるまると育ちます。この二つの美男美女を、ほのかな甘味と酸味を持つ「麹」が仲人し、生み出されるのが「かぶら寿し」です。
「かぶら寿し」は石川県加賀地方を代表する伝統的な発酵食品であり、輪切りにしたかぶらに寒鰤を挟み、米麹で漬け込んで発酵させた料理です。独特の味わいが口の中に広がり、冬の美食として愛されています。
江戸時代に確立した伝統料理
かぶら寿しは江戸時代初期から作られたようですが、『金沢市史』(風俗編)には、宝暦7年(1757年)の記録として当時の10代藩主前田重教の時代に、中流武士層での客をもてなす料理として「なまこ」「このわた」「かぶら鮓」が出されていたことが初めて記されています。
特に以下の点が注目されます:
①「なまこ」「このわた」と並んで「かぶら鮓」が記載されている
② 年賀の客をもてなす料理として提供された
③ 当時の武家の中流家庭でも供される料理であった
この記録は、かぶら寿しの古い歴史を示す具体的な証拠として、現在でも重要視されています。当時すでに、かぶら寿しが金沢の冬の伝統的な料理として確立していたことがわかります。
その発祥の伝承としては、「金沢の宮腰(現在の金石)に住む漁師が青かぶらにブリの切り身を挟んで麹に漬けこみ、正月の起舟を祝う料理とした」とか「前田氏の当主が深谷温泉で食べて広まった」などの説があります。
武家社会の前田藩は町民の贅沢を禁止していたため、「鰤一本、米一俵」と言われた高級魚の鰤は武士など身分の高いものしか食べる事が許されず、身分の低い町人などはたとえお金があったとしても食べる事ができませんでした。
しかしたとえ禁止されていたとしても「美味しいものが食べたい!」という人の気持ちは今も昔も同じです。「たっぷりと脂ののった鰤を食べるにはどうしたらいいのか?」「何かいい方法はないか?」 と悩んだことと思います。
そこでこんな面白い話が伝わっています。
加賀百万石の御用商人で全資産は300万両といわれ、その持ち船の千石船は遠くはロシアやオーストラリアのタスマニア島まで足跡を残していたといわれる廻船問屋の豪商・銭屋五兵衛でさえ、大ぴらには鰤を食べることはできませんでした。
そこで寒鰤をかぶらに隠して密かに食べていたという由緒ある(?) 逸話を残しています。
町民たちは身分の制約の中で知恵を絞り、寒鰤をかぶらに隠して密かに楽しんだとされています。
この逸話は、時代を超えた食への探求心を感じさせるものです。
まぁ、この話はかぶら寿しの誕生秘話としてではなく、時代の流れからいっても武家から豪商、のちに庶民へと広がっていく過程と考えれば面白いのです。
銭屋五兵衛誕生の50年後、金沢市高岡町に住んでいた加賀藩の儒学者・金子有斐の『鶴村日記』には、文政9年1月3日(1826年2月9日)に魚屋から「鰤のすし」を贈られたと、また1月5日に「雨天、鶴来町屋よりにしんのすし(大根寿し)来る」記されています。
魚屋だけでなく、表具師、髪結いなどの商人は、得意先に対して年初にかぶら寿しや大根寿しを贈る風習があったことがわかります。かぶら寿しは武士など身分の高い人々に、庶民は北前船が運んできた ” 磨きニシン” と大根で作る「大根寿し」を食べていました。余談ながら、この庶民の間に広がった疑似「かぶら寿し」が、現在の「大根寿し」の始まりとされています。
文化交流と北前船の影響
江戸時代から明治時代初期にかけて、大阪から北海道を結ぶ「北前船」の航路は、金沢を文化と物資の交流地として栄えさせました。かぶら寿しの原点は、魚を野菜ではさみ込み米麹と塩で漬ける北海道の漁師町で生まれた「重ね漬」と考えられています。
北海道では戦後に「白菜と鮭のはさみ漬け」として進化し、金沢では江戸時代を通じて脂ののった寒鰤をかぶらで挟むという独特の進化には北前船を抜きには語れません。この背景は、かぶら寿しが地域の地理的特性と歴史に根ざした料理であることを示しています。
文豪に愛されたかぶら寿し
泉鏡花が1920(大正9)年に故郷について書いた『寸情風土記(すんじょうふどき)』には、師である尾崎紅葉にかぶら寿しを贈り、「此ればかりは、紅葉先生一方(ひとかた)ならずほめたまいき」と大変喜ばれたという一節があります。
さらに(かぶら寿しは)「四時常にあらず、年の暮れに霰(みぞれ)に漬けて、早春のご馳走なり」と、糀を霰(みぞれ)と見立てた鏡花の文学的表現には驚かされます。雪国の冬の到来時に降る霰(みぞれ)が庭一面に敷き詰められる様は、故郷・金沢の冬を表現し、まさに糀に包まれたかぶら寿しにそっくりなのです。
泉鏡花と親交のあった芥川龍之介も日記「澄江堂日録」にはかぶら寿しを贈り物として用いたと書かれています。これらの事実から、かぶら寿しが当時の文化人の間で特別な贈り物として重んじられていたことが伺えます。
また戦後の名宰相、吉田茂の息子さんで、明治45年生まれで作家・英文字の研究者として有名な吉田健一氏のもう一つの顔は、稀代の酒豪で美食家でした。
金沢の美酒と食文化をこよなく愛し、特に「加賀料理」という言葉を初めて世に出し、20年にわたって頻繁に金沢へ通い詰めました。その時に定宿にしたのが金沢で一番の老舗の「つば甚」でした。
吉田健一氏の随筆集『私の食物誌』には、「金澤の蕪鮨(かぶら寿し)」に関する一節があります。
その中で、吉田氏は「この鮨を漬けるのに麹の他に何を使うのであっても、見た所は蕪と鰤と麹でつけたものがどうしてこんなに旨いのか分からない。」と述べています。
さらに、「この蕪鮨の蕪と鰤の取り合わせということになると実際に食べてみる他ない。」とも記しています。これらの表現から、吉田氏がかぶら寿しの独特な美味しさに感嘆している様子が伺えます。
北陸の冬の象徴「鰤起し(ぶりおこし)」
まっ暗な空に閃光が走り、霰(みぞれ)混じりの雷鳴が轟く――11月下旬、北陸地方で響き渡るこの強烈な雷は「鰤起し」と呼ばれます。冬の訪れを告げるこの雷鳴は、同時に鰤漁の最盛期が始まる合図でもあります。荒れた日本海で獲れる寒鰤は、身が引き締まり、脂がたっぷりとのった最高の状態です。
さらに、地元の土の中では青かぶらが収穫の時を待ち、かぶら寿しに生まれ変わる日を迎えようとしています。この青かぶら1個から、たった1つのかぶら寿ししか作れない贅沢さが、伝統料理の価値を物語っています。
富山と石川、地域性が映し出す「かぶら寿し」
北陸地方には、石川県と富山県それぞれに根付いたかぶら寿しがあります。富山県西部地域はかつて加賀藩に属しており、加賀の文化と深い結びつきがあるため、「かぶら寿し」が両県で郷土料理として親しまれています。
石川県(金沢)のかぶら寿しは、青かぶらを輪切りにし、寒鰤を挟んで漬ける高級感漂うスタイルが特徴です。一方、富山県では、挟むのではなく混ぜ込むスタイルで以下のような地域性と特徴が見られます。
富山の特徴
地域ごとの魚の使用
西部:サバを使用するのが一般的。
東部:サケを使う地域も存在する。
現代の変化
富山湾で獲れる鰤を使ったかぶら寿しは近年登場したもので、伝統的には塩漬けのサバやサケが主流でした。この変遷は、富山の食文化が進化し続けていることを示しています。
かぶらの切り方
石川(金沢):青かぶらを丸ごと輪切りにし、分厚い層を形成。
富山:白かぶらを半月切りや短冊切りにして漬ける、家庭的で素朴な仕上がり。鰤と挟むようになったのは近年のこと。
加賀藩の食文化がもたらした共通点と違い
共通点
加賀藩(前田家)は、石川・富山を統治し、華やかな食文化を育みました。その中で、両県のかぶら寿しには以下の共通点が見られます。
発酵食品の基盤
「魚+かぶら+麹」というスタイルが共有され、寒冷地の保存食文化が根付いた。
祝いの席での役割
冬の贅沢品として、贈答品や年末年始の祝い事に欠かせない料理となった。
違い
材料と仕上がり
・石川:脂の乗った寒鰤と青かぶらを使い、見た目にも豪華で贅沢な味わい。
・富山:塩サバや塩サケを使用し、白かぶらを使った素朴で保存性を重視。小ぶりで食べやすいサイズ感。
特徴 | 青かぶら | 白かぶら |
外見 | 表皮が緑がかっている(上部が青みがかる) | 全体が白色で均一な色合い |
栽培 | 病気にかかりやすく、生育に手間がかかり、収穫が遅れると割れやすい | 寒さに強く、育てやすく、かつ加工しやすく発酵食品に適している |
食感 | 肉質はかたくて歯切れがよい。少しの苦み(アク)が特徴 | 味はみずみずしく、爽やかな甘み、しっかりとした食感 |
用途 | 主にかぶら寿しのみに使われる | 日常的な料理や漬物に使われる |
栽培地域 | 金沢や加賀地方で小量が栽培される | 全国的に栽培されている |
かぶら寿しでの賞味期限 | 美味しく食べれるのは漬け上がり後、冷蔵で5日間 | 美味しく食べれるのは漬け上がり後、冷蔵で10日間 |
文化的背景 | 加賀藩の中心で武士階級や豪商が多く、食文化が贅沢に鰤を使用 | 加賀藩の支藩(富山藩)であり農村や漁村を基盤とした庶民的な文化で身近な魚を使用 |
食文化への影響 | 青かぶらの美しさと味わいは加賀料理の「贅沢さ」や「芸術性」を体現 | 経済的で扱いやすい白かぶらは、富山の農村や漁村での日常食として広がる |
経済的背景
石川県(金沢)は藩の中心地として富裕層が多く、贅沢品としての鰤が取り入れられました。対照的に、富山では安価で保存性の高い魚が選ばれる傾向がありました
文化と食材の進化が伝えること
江戸時代から続く加賀藩文化は、富山と石川に似通った発酵食品文化をもたらしましたが、地域ごとの気候や経済的条件が個性を生み出しました。
石川県(金沢)のかぶら寿しは、「贅沢で華やかな味わい」として特別な席で重んじられます。
富山県のかぶら寿しは、「素朴で家庭的な味わい」として日常の保存食として親しまれています。
加賀藩の食文化と地域性
共通する基盤としての加賀藩
加賀藩(前田家)は石川と富山の両県を治めており、特に金沢は藩の中心地として武士階級や豪商が集い、華やかな食文化が発展しました。富山もその影響を受け、藩内では食材や技術、調理法が共有され、類似した料理が発展する素地がありました。
発酵食品としての共通性
海産物が豊富で寒冷な気候の加賀藩では、保存性を高めるための発酵技術が発展しました。かぶら寿しのような「魚+野菜+麹」を用いる発酵食品が広まり、冬の保存食として重宝されました。
冬の保存食としての役割
冬の寒さが厳しく雪も多い両地域では、保存性の高い食品が重要視されました。かぶら寿しはその中でも特に贅沢で栄養価が高く、祝い事にも用いられる料理として位置づけられていきました。
石川と富山の材料の地域性
同じ加賀藩でありながら、石川県(金沢)では鰤が好まれ、富山ではサケやサバが使われたのは、地域ごとの漁業環境や材料の入手しやすさが影響しています。ただし、発酵食品としての基本的なスタイル(かぶら+魚+麹)は共通しており、これが加賀藩の文化として両地域に根付いています。
富山の独自性
富山では、保存性をさらに高めるために塩分の高い塩サケや塩サバが使用されました。日常的な保存食として素朴なかぶら寿しが発展した一方、金沢では贅沢さを重視した華やかなスタイルが生まれていったのです。
経済的背景と保存性の違い
鰤の経済的要因
鰤は他の魚(サバやサケ)に比べて高価であり、日常的な発酵食品であるかぶら寿しに使うのは経済的に負担が大きかったです。金沢は加賀藩の城下町で富裕層や武士階級が多く、贅沢な食材である鰤が食文化に取り入れられやすい環境が整っていました。
保存性の問題
鰤は脂が多いため、発酵食品として使うと腐敗しやすいという欠点があります。特に富山の内陸部や山間部では、冷蔵技術がない時代には鰤を安全に保存するのが難しかったと思われます。一方、塩サバや塩サケは塩漬けに適しており、発酵食品として安定した品質を保つことができました。
現代の変遷と共通の文化
ブリの使用
現代になって、富山でも鰤を使用したかぶら寿しが作られるようになりました。富山湾で鰤が重要な魚種として知られるようになり、「かぶら寿し」や「ブリ大根」として親しまれています。これは地域の食文化の変遷を示す興味深い例です。
文化の共有と独自性
富山県と石川県で使われる材料や味付けに違いはあれど、江戸時代の加賀藩という共通の文化的背景から、かぶら寿しのような料理が類似性を保ちながら発展した可能性は非常に高いのです。それぞれの地域が地元の素材や好みに応じてアレンジを加え、現在の特徴的な形に至ったと考えられます。
まず金沢は加賀藩の城下町であり、富裕層や武士階級が多く、贅沢な食材であるブリが食文化に取り入れられやすい環境が整っていました。
富山湾でもブリは捕れますが、ブリは保存や加工が難しく、生鮮品として流通することが多かったため、発酵食品として使うよりも、新鮮な状態で食べられる傾向が強かったと考えられます。
また経済的な理由からもブリは他の魚(サバや鮭)に比べて高価であったため、日常的な発酵食品であるかぶら寿しに使うのは経済的に負担が大きかったのです。
富山の農村部や漁村では、保存性が高く安価な塩サバや塩鮭が日常の保存食に適しており、コスト面で合理的でした。