考察・加賀料理

美しく、加賀料理・加能登カニ盛り込み

作り変える力

 新幹線が開通して多くの人が金沢の食を楽しみにこの地を訪れ、近江町市場では朝の7時にはすし屋さんの前に行列ができるようになりました。

金沢の食の懐は奥深く、例えばB級グルメの金沢カレー、金沢おでん、ハントンライス、どじょうの蒲焼・唐揚などといえどもその源流は加賀料理そのものにあり、その特徴を継承しています。

金沢B級グルメ・どじょう唐揚

金沢B級グルメ・どじょう唐揚

その特徴とは、当初から金沢にないものでも、外からの刺激により自分の世界に繰り込み、新しいものに 「作り変える力」 が強烈に機能することでしょう。

芥川龍之介の小説 「神神の微笑」(1922年) は、秀逸な日本文化論になっていますが、この中で日本の力は、「破壊する力」 ではなく、「造り変える力」 だと芥川は書いています。そして、その 「造り変える力」 は、ここ金沢において顕著にあらわれていると考えています。

 例えば、日本人の国民食ともいえるカレーは、源流のインドのどこを探してもない純日本食です。特にビーフカレーはインド人にとっては天につばを吐く料理といえます。インドでは牛は神聖な神の使いですから、それを食べるなんて考えられない話なのです。それがビーフカレーではなく、カツカレーであったとしてもインド人に尋ねれば 「これはどこの国の料理ですか?」 と、問われることは間違いありません。

 日本人はインド料理のカレーを純日本食のカレーに作り変えてしまいました。そしてこんどはそのカレーをどろりと濃厚で濃い色のルー、特別な食器類などで別次元のものに作り変えたのが金沢カレーなのです。
芥川龍之介はこれを 「造り変える力」 と名づけましたが、ことは食の事ですので私は 「作り変える力」 として表現したいと思います。

ひとくちに加賀料理とは何か?

 「日本料理の基本である懐石に金沢の食材、特性、風土、気候を加味したもの」 と答えるのが一番簡単なのでしょうが、実はもっと複雑で、加賀料理のルーツは白鳳時代から石川の地が日本の表玄関であったことに起因しているのではないか。と考えています。

今でこそ、大都市というのは太平洋側に集中してしまい、明治以降は日本海側はさびしい限りですが、昔は違いました。江戸時代には金沢は百万石の加賀前田藩の首都であり、江戸・大阪・京都に次ぐ日本で四番目の大都会でした。私が小学校の社会の授業では、太平洋側を 「表日本」 、日本海側を 「裏日本」 と習ったのを記憶していますが、その昔は日本海側が 「表日本」 でした。

加賀れんこんを使ったセンベイ

加賀れんこんを使ったセンベイ

中国や朝鮮の文化は、地理的に近い日本海側から入ってきて全国に伝えられました。能登半島の発掘調査の記録をみると、明らかに縄文時代に外国の文化が入ってきたのが分かるそうです。

 日本海側を表玄関として日本海文化が花開き、京都へも伝えられました。京都は、都で日本の中心的な存在でしたから、すべてのものが集まってきました。また逆に京都から全国に、もの・情報が発信されました。全国の物産・珍味のみならず、外国の文化も伝わりました。この京の都と交流のあったことが後々おおいに金沢の 「食」 に影響を与えていきます。

遣唐使よりも濃厚な渤海との交流から

 あまり知られていませんが古代の高句麗からも、新羅からも、時代がさがって渤海からも使者がやってきました。石川県は、今の横浜、神戸のような海の玄関口だったのです。そして、異人館もあり、外国人たちも住んでいたようです。

中国大陸の隋や唐に遣隋使、遣唐使の使節を送ったのは有名ですが、同時代の奈良時代から平安時代にかけて中国東北部 (満洲から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて) に渤海という国があり相互の交易があったのは東アジアにとって、日本にとって重要な歴史的事実です。

加賀れんこんを使ったはす蒸し

加賀れんこんを使ったはす蒸し

 渤海は、日本に34回 (西暦727年から200年間、北陸地方に21回、内能登3回,加賀地方4回、諸説あり) も使節を送ってきました。遣唐使の平均23年に1回と比べて、渤海師は平均5~6年に1回の割合となり、日本も、親善使節や渤海使を送って行く送使として15回も使節を派遣して親善を深めました。

 渤海との交流を通して,いろいろなものや情報が大陸から日本に伝えられました。
海を往復した頻度や相互交流の濃密さなら遣唐使よりもこの渤海使の方が世界への外交チャンネルとしても文化的チャンネルとしても数倍も濃厚であり、太い関係でした。

北陸地方では、渤海からもたらされる文化や品物を直接見聞きすることが出来ました。その為、密貿易をしようと試みる人が出てきて政府から禁止されるほどでした。すべての法律がそうであるように禁止されるということは、盛んに行われた証拠にもなるのです。

渤海使の帰りは、いつも必ず石川県の富来町の福良津 (現在の福浦港と比定される) を使うように決められ、渤海使のための迎賓館 (能登客院と日本後紀に記載) もありました。当然ながら、そこには大陸の文化、食文化も輸出入されていて、彼らの歓送迎のため、両方の食材と調理法が混ざり合った新しい味での「宴」も行われただろうことは想像に難くありません。

 そして金沢で料理文化が独自に発達したエポック・メーキングは、なんといっても加賀藩主・前田家の存在でした。加賀藩は文化振興政策をとっており、工芸や茶の湯などの文化の庇護に努め、多様な文化を成熟させました。

戦後に加賀料理という言葉が生まれ、そのまま定着したのも江戸時代から続く確固たる独自性があったため、世間にすんなりと認められたのでしょう。

加賀料理には、大きな特徴が三つあります

海の幸、山の幸に恵まれた地

 地政学的に日本海に飛び出した石川県は、海と山とに囲まれています。海は寒流と暖流がぶつかりあう多い好漁場で新鮮な魚介類が容易に手に入り、霊峰・白山の伏流水は豊富に加賀平野に流れ込み米や野菜が豊富にとれる恵まれた土壌のため、上流階級も庶民もその恩恵にあずかることができました。
伏流水とか地下水は水が美味しいという事で、酒造りの絶対条件であると同時に料理の進歩にもかかせない条件でした。

 しかし良く似た条件の地域は他にも多くあるのに、なぜ金沢だけが加賀料理へと進化したのでしょうか?
疑問が残りますね。 その答えは順を追って説明いたします。

鴨肉の羽盛り

鴨肉の羽盛り

海からやってきたさまざまな交易品や文化の歴史

 近世以前の大量輸送手段は海の道だけに限られ、海を伝ってさまざまな交流が行われました。

古くは前述の大陸からの風であり、江戸時代には北海道や樺太から北前船で数の子、身欠きニシン、干しナマコ、昆布、棒鱈、九州・瀬戸内からの物産も届けられ、海からやってきた交易品や文化は、日本中から海上輸送の中心の金沢に集まり、石川の食に多大な影響を与えました。

武家文化と宮廷文化の融合

 その特長のひとつが豪快さです。ひと昔前の金沢の割烹店でしたら、刺身のひとつでも活きのいいところを分厚く切り、器にざっくりと盛付け味わせたものでした。さすがに料亭では粋に盛付けますが、どこかでその豪快さがあらわれてきます。

その点は、食材の持ち味を活かし、食材互いの長所を取り入れ短所を補う 「採長補短」 を以って、最良の味を創ることを第一としている大阪料理と同じなのですが、持っているバックボーンが違いました。

能登の珍味・くちこ、鮎とともに炭火焼で

能登の珍味・くちこ、鮎とともに炭火焼で

それが宮廷料理から進化した京料理に続いて、加賀料理が日本料理の二大スタイルとなった違いなのではないでしょうか。

 藩祖前田利家は主君である豊臣秀吉の影響を受けて京風の文化を取り入れ、千利休ら多くの茶人たちとも親交を深めました。そして江戸時代に入ると、前田家は徳川家と姻戚関係となり、江戸発信の成熟した武家文化をも吸収しました。また皇室ともつながり修学院離宮、桂離宮の造営にかかわるなど、武家文化、宮廷文化とも混ざり合い、徐々に独自性を増していったと推測されます。

 そして南蛮文化(南蛮料理)との接点もあるのです。

大鯛の唐蒸し・つば甚 様提供

大鯛の唐蒸し・つば甚 様提供

 例えば、加賀料理の中でも代表的で豪快なのが 「鯛の唐蒸し」 です。背開きにした鯛にギンナンや百合根などの具入りのおからを詰めて蒸したこの料理は、味が濃く京風懐石とも違った趣ながら豪快で鯛自体の味が生きています。

鯛の唐蒸しの由来は長崎から加賀藩に伝えられた南蛮料理という説があり、丸のままの素材に詰め物をして熱を加えるという調理法は、伝統的な日本料理には見られないもので、呼び名の唐蒸しというのもまた意味深です。

治部煮・つば甚 様提供

治部煮・つば甚 様提供

 この料理と並んで有名な 「治部煮」 は、高山右近ら加賀のキリシタンが、宣教師から教わった南蛮の料理をヒントに考案したものと言われています。鴨肉と野菜、そして金沢独特のすだれ麸が使われており、繊細なダシのうまみと食材自体のおいしさが調和した逸品です。まさに加賀料理の長所を表現しているといえます。

肉に小麦粉をまぶして煮るのは、西洋のビーフシチューなどと同じ手法で、他の地域の郷土料理には見当たらず加賀料理独特のものです。

一人用の小鯛唐蒸し、治部煮

一人用の小鯛唐蒸し、治部煮

江戸時代の献立には、地元で手に入る食材はもちろんのこと、北海道の昆布や棒鱈、キンコ(干しなまこ)、岐阜県の岩茸、おそらくは長崎から輸入されたであろうツバメの巣やフカヒレの記載までもあります。

 かくのごとく、海からやってきた文化、宮廷文化、武家文化、南蛮文化と多くの文化の影響を受け、料理法を、食材を取り入れ、作り変えて、絶妙のハーモニーを醸し出し独自の世界を作り上げてきたのが加賀料理なのです。

 短絡的に地元の新鮮な食材だけで料理した郷土料理が加賀料理と考えている最近の風潮は大きな間違いなのです。日本中から、世界中から美味しい食材を集め、数々の文化、料理法を触媒として作り上げてきた加賀料理を、そのように規定するのは加賀料理の進化を否定するものなのです。

新しい世界を、新しい味を従来のものから 「作り変える」 融通無碍さ、これこそが加賀料理の真髄なのです。

金沢に魅せられる

 そしてどうしても特記しておかなければいけないのが、加賀料理のレベルの高さ・技術の発展を支えている多くの料理人たちの存在です。
豊富で新鮮な食材を使いこなす技量も食文化のひとつです。和食の本場といえる京都をはじめ、全国からわざわざ修行に来る人もいるほど、金沢の料亭の高いレベルは広く知られています。

  美食家・芸術家として著名な北大路魯山人も、金沢の料亭に魅了された一人でした。彼は 32 歳のころ金沢の商家の主人・細野燕台のところに食客として招かれており、金沢の料亭・山乃尾に連れていかれました。料亭の料理やその空間に衝撃を受けた魯山人は足しげく通い、主人から料理の味付けや盛り付け、器との調和、客のもてなしなどを学んだといわれています。

美食家としての魯山人のルーツは金沢の料亭にあるといってもよいのではないでしょうか。

「器は料理の着物」 といったのは魯山人ですが、日本人にとって料理とは、舌で味わい、そして目で味わうものです。料理は器によってその美味しさを際立たせ、器もまた料理が盛られることで真価を発揮します。

 料理と器の絶妙のマッチング。それを可能にしたのは、石川が古くから育んできた食文化と石川ならではの数々の魅力的な伝統工芸です。優美な蒔絵を施した輪島塗や色鮮やかな九谷焼きなどはこの地ならではのものであり、料理と器の一体感が 「加賀料理」 の特徴でもあるのです。