北陸一の繁華街である片町が犀川に重なる一角にその割烹店はあります。
引き戸を開けてわずか3メートル強のプロローグでありながら、繁華街の真ん中にあるはずの喧騒から隔離され、主人と女将の 「いらっしゃいませ」 との声を合図にそこには非日常の世界が広がります。
奥能登は珠洲の生まれ、三男坊であるがために生きるためには生まれ故郷をすて、手に職をつけることによって生き抜かねばならなかったハングリー精神を胸に静かに燃やしてきた男です。
そのために料理人になろうと決め、まずは京都の調理師学校へと電車に乗り込みました。
全国から生徒が集まる東京・大阪の調理師学校といえども大学にも行けず、行くところがなく仕方がなく調理師学校に通う生徒が大半。その中でまともに将来を考え努力するのは極わずかです。
しかしその極わずかの中でも調理師として大成するのはそのまたごくわずかしかいません。
一昔前なら最初に勤めた店がダメでも志を曲げず次の店に移って腕を磨いたものですが、ゆとり教育の今では一度でも挫折すると 「コンビニででもバイトするワ」 とあきらめてしまう心の弱い子ばかりです。
先日、大阪の某調理師学校での話を漏れ聞けば、調理師として就職して3年後、まだ調理師をしているのは10人中1人いるかいないかとか。
刺激のない奥能登から京都の真ん中に出てきて、多くの誘惑があったでしょうがが、卒業時にはバイトをしていた有名・串焼き屋から 「いずれは店長として来年オープンする祇園の店をまかせるから京都に残れ。」 と、誘われたのも日ごろの働き振りと自分自身へのスキルの上昇志向を認めたからであろうと推測しています。
しかしその甘い話を断り、自分のレベルアップのため金沢の浅田屋さんへと修業の場を移すことになりました。もしあの時あの話を断らなければ、「今頃は祇園でランボルギーニを乗り回していた」 と笑い話にする、明るさです。
それにしても珠洲出身の名料理人は多い。冬の日本海から振り下ろすシベリヤからの風雪が地道に辛抱強く道を突き進む料理の世界にむいているのかもしれません。
そんな彼と出会ったのもそんな時分でした。努力タイプ と 天才タイプ と分ければ、彼はどちらかと 天才タイプ でしょうか。1つ言えば2つ3つと分かるタイプでしたが、多くの天才タイプは、その時点で世間をなめて努力するのをやめてしまい、いつのまにか消えていってしまったのを大勢見てきました。
残念ながら若い頃は愚痴が多かったのが欠点でした。このタイプも料理人として物にならないタイプなのですが、他と違うのは手が動いていたこと。まずはやってから口に出るタイプでした。ここが成功の秘密だったんでしょうね。中学・高校と野球をしてきたのも役に立ったのだと思います。そしてなによりポジティブで楽天的で明るかったです。短所を長所が飲み込み伸びる典型でした。
彼の口癖は 「人は褒めて伸びる」 「怒って伸びるわけがない」 これも彼の原体験がなせる業でしょう。そんな彼も浅田屋の中核となり店を任されるようになり、結婚を期に独立をすることになり、ここ 「いけ森」 も、オープンから七年がたち、彼の店からお客様の笑い声が途絶えることはありません。
「来ていただいたすべてのお客様に満足して帰っていただきたい」 と、願う彼の心は本物で、彼の力量にとって今の店はもう狭くなってきたのではないかと思うのは、私1人ではないでしょう。
10月16日 夜
割烹 いけ森
石川県金沢市片町1-9-8 ベルガモ店舗101号
電話番号 076-231-0498
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